体育の先生を目指したのは、おじいちゃんに前転をほめられたから。

子どもの頃から、体育の先生を目指していました。きっかけはおじいちゃんに前転をほめられたからです。

*教諭免許状

保育園に行く前の話

いつ頃かは、はっきり覚えていませんが保育園に行く前の頃の話です。

 

場所は母の実家。保育園にはまだ入園していなかったと思いますが、
その前後の記憶はとてもあいまいなものです。
おそらく、覚えている記憶の中で遠い記憶の一つだと思います。
一番昔の記憶ともいえるかもしれません。

その思い出の映像に色がありません。
・おじいちゃんの家であること
・私の前におじいちゃんがいること
・部屋には布団が敷いてあること

しか覚えていません。

そこで私はてんぐり返し(前転)をおじいちゃんに見せたのです。
保育園には、まだ行っていないので、保育園で習ったわけではありません。
家で練習をした記憶もないので、どこで覚えたのかはわかりません。
「見て見て」といったどうかも分かりませんが、遊んでいたのではなく
おじいちゃんの前で披露したのです。

するとおじいちゃんは、その前転をとてもほめてくれました。

「体操の先生になれるんじゃないか」と

セリフもその時のおじいちゃんの声もはっきり覚えていませんが、
「体操」「先生」
と、言われたのは確かです。

ほめられたのがとてもうれしく、ぼんやりですが、その時から
体操の先生を目指すようになりました。
おじいちゃんの言葉を真に受けたのです。

おじいちゃんは昔の人でしたから、「体操」という言葉を使いましたが、
おそらく体育の先生のことだと思います。
私も知らないうちに体育の先生に変換されていました。
体育という言葉を知ったのは、小学生になってからでしょうから
保育園の頃は「体操の先生になりたい」と思っていたのでしょう。

記憶の映像に色がないほど昔、おじいちゃんの言われたことが、
体育教師を目指すきっかけになったとは驚きです。

常に「体育教師を目指す」と思い続けていたわけではありませんが
頭の片隅にあったのは事実です。

私が体育教師を目指したルーツがおじいちゃんの一言だったのです。

小学校の頃の話

小学校入学の頃はカラダも小さく、運動は大好きでしたが、それほど運動が目立つ子ではありませんでした。

 

小学生の頃はとても小さく、いつも「前へならえ」はできませんでした。
身長順に並ぶといつも先頭で、腰に手をやるポーズなのです。
「前へならえ」をしたいと本気で思っていたこともありました。

今でも小さいほうですが、小学生の頃は名前をもじって「ちい崎」と言われていました。
弟も小学生の頃、言われていたそうで、笑ってしまいました。
当時は、名字に「大」がついていて
身長が低ければ「ちい○○」と呼ばれました。
また喧嘩が弱い子の名前に「強(つよし)」とついていれば「○○よわし」と言われていました。
今でもそうなのでしょうか。

私は小学生後半の第二次性徴がくるまで、とても小さかったのです。
もちろん足は遅くはなかったのですが、そんなに目立つ子ではありませんでした。
体育は好きでしたし、得意ではありました。

そして小4の時、ラグビーに出会うのです。
大学4年間、ラグビーをやったのは小5年のパスがきっかけ

たまたま、小学校のグランドで遊んでいたところに、
小学校の先生二人がラグビーボールでパスを始めます。
それに興味を示し、数人の友だちとそのパスに加わったのです。
そのパスの遊びに、最後まで残ったのは先生一人と、私、そして黒田君でした。
その先生はラグビーをしていました。
放課後にもう一人の先生にラグビーのパス練習に誘ったのがこれでした。

二人でパス練習をしていたところに、私たち子どもが加わったのです。
一人の先生は途中で仕事に戻り、友だちは飽きたのか、一人二人いなくなります。
そして、私と黒田君が残ったのです。

二人は月に2回あるラグビースクールに誘われます。
私と黒田君は一緒にラグビースクールに入ったのでした。

私はそのラグビースクールの練習の効果と第二次性徴出現の効果もありました。
カラダが多少大きくなることも手伝い、足はさらに速くなりました。
運動もさらに得意になったもこの頃からでした。

 

中学生の頃の話

足が速く、運動の得意な小学生。中学生の頃は陸上競技に目覚めます。

 

中学にはラグビー部がなく、足の速さを生かして陸上部に入部します。
(ラグビースクールは小学生主体でしたが、中学1年生まで通っていました)

得意なのは100メートル走と走り幅跳びです。
中学1年の新人戦では、100M3位、400Mリレー1位、走り幅跳び1位をとりました。
走り幅跳び1位は間違いありませんが、100M、リレーは記憶に自信がありません。
しかし、走り幅跳びが最も得意で、短距離走も速かったのは間違いありません。

中学3年間は「陸上命」でした。県大会などの大きな大会では、
なかなかいい成績は出せませんでしたが、金沢市の大会では常に上位入賞。
走り幅跳びはいつも優勝していました。

中学校も3年間総合優勝でした。

当時の自己ベストは
・100M 11秒8
・走り幅跳び 5m99㎝

地域では、まずまずの記録でした。

もちろん将来の夢は体育教師です。
この頃になると、将来の夢が少し現実味を帯びてきます。
将来、国体に出て、体育教師になるのが夢になりました。

 

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このように保育園、小学校、中学校と進んでいきました。
おじいちゃんに言われた「体操の先生」は言われたその日から、常に頭にありました。
「体育の先生」になりたいと。

ちなみに小学生の頃、一番初めに覚えた大学の名前が

「日本体育大学」

小学校のころから、将来、行く大学だと決めていました。
高校を卒業して日体大に進学したので、小学生の頃からの希望が
叶いました。

子どもの頃のおじいちゃんの言葉が、体育大学進学に繋がり、
保健体育免許取得に繋がりました。
教員には正式採用はされませんでしたが、講師という立場で仕事をすることができました。

講師をやめてからは、トレーニングコーチとして幼稚園児から、
高齢者まで運動のサポートすることができました。

部活動の顧問はできませんでしたが、トレーニングコーチとして
高校部活動に携わることができています。

大型免許をとったのは、部活の引率をしたかったから

おじいちゃんに言われた「体操(体育)の先生」ではないのですが
運動の先生になることができました。

教師になれなかった。でも教える人にはなれた。

 

 

部活動のサポートの帰り道、車の中で、ふと、おじいちゃんのことを思い出しました。
私が大学生の時、亡くなったおじいちゃん。

「トレーニングコーチ」という名前わかるかな。

 

【編集後記】

明日は「金沢マラソン2019」です。
新幹線も何とか復旧し、県外の方もストレスなく金沢に来ることができました。
友人も含め多くの人が参加します。
雨が降らないで、楽しく走ることができればいいですね。

 

【昨日のOnce a day】一日一回新しいことを

本陣 信長弁当

 

おしらせ 2  
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