教師になれなかった。でも教える人にはなれた。

子どもの頃から体育の先生を目指していました。教師にはなれませんでしたが、トレーニングを教える人には、なれました。

木島アカデミー木島アカデミーにて

教師になりたかった。でもなれなかった。

教師を目指していましたが、教員にはなれませんでした。

 

ときどき、
「教師を目指していたのに、どうしてこの道に入ったの?」

と聞かれます。
トレーニングコーチになった経緯を書いてみます。

 

小さい頃、祖父の前で前転をみせたら、すごく褒められました。
「体操の先生になれるんじゃないか」と言われたのを覚えています。

それ以来、将来の夢は体操の先生でした。

体育教師になるために日本体育大学に入学しました。
はじめて知った大学の名前が日体大ですので、念願といえば念願の志望校でした。大学で教諭免許を取得。
卒業後は保健体育の教師を目指し、常勤講師をしながら教員採用試験を受け続けました。

当時は教員採用試験の倍率が異常に高く、最高13倍以上あったのを覚えています。
特に体育の教員は、1985年の石川総体(インターハイ)、1991年の石川国体の影響で採用はほとんどありませんでした。
願書には競技成績を書くことが必須でしたから。
昔は、開催県の優勝が絶対条件ですから、県も必死だったんでしょう。
大人の事情もありました。

私も、いろいろな方から、体育教師としての採用をあきらめるように言われました。
「小学校教員は男性が少ないから、小学校教員を目指して、
いずれ異動すればいいから」

多くの方に言われたので、当時はそうだったのでしょう。
中・高の体育教員はかなり狭き門でした。

小学校教員を目指そうにも免許がありません。
日本体育大学は、中・高の保健体育1種免許しか取れませんでした。

そこで、講師を続けながら、佛教大学(京都)の通信教育で勉強します。
文学部に一年在籍でした。

慣れない仕事と、通信のレポート作成。我ながらよく頑張ったと思います。大学卒業直後だからできたのかもしれません。
もし今、やれと言われても、絶対にできないでしょう。

教育実習、スクーリング、レポート、試験、何とかすべてクリアーして1年で小学校2種免許を取得します。

それ以来、ずっと小学校免許で採用試験を受けました。

10年経ちましたが、なかなか採用はされませんでした。
養護学校での勤務実績が認められ、放送大学で通信教育を受ければ養護学校教諭2種を取得できる制度ができました。

また通信教育です。教科は3教科でしたが、1年近くかかりました。
その制度が始まった初めての年でしたから、情報は全くありません。
講師とはいえ、年齢も若手ではありませんでしたから、仕事もある程度まかされます。いっぱいいっぱいの毎日でした。

試験にも合格し、晴れて資格取得です。
石川県から3人受験しました。現在一人は大学教授、一人は友だちの奥さんになりました。

やれることはやりましたが、最後まで教師にはなれませんでした。

踏ん切りをつけてやめたのですが、どこかにモヤモヤしたものが残っていました。

「教師にはなれなかった」と

ホームヘルパー1級

養護学校での経験を活かし、高齢者のお世話をやってみないかと、ホームヘルパー1級取得を勧められました。

当時のホームヘルパー1級(現・実務者研修)は、2級と違い、かなりの勉強をします。
ホームヘルパー2級が約9日間の学習に対して、1級取得のため
約3か月専門学校で学びました。
ハローワークでの事業でしたので
お金はあまりかかりませんが、ハードスケジュールでした。

多くの応募の中から女性20名、男性5名選ばれました。
(かなり狭き門だったと、後から聞きました)

8時間余りの講義と実技。不器用な私は、ベットメイキングや、浴衣の脱着など苦労しました。

無事、試験も、現場実習も終了しホームヘルパー1級を取得しました。
男性5人のうち一人が、私のスノーボードの師匠であり、養護学校2種免許を同時期に取得した一人のダンナさんになりました。

 

取得後、いろいろな施設や、病院を見学したり、話を聞いたりしたのですが、なかなか思うようなところがありませんでした。

しばらくして、見つけたのが、前職である

医療法人社団光仁会木島病院

だったのです。
はじめはデイケアでの運動指導だと思っていたのですが、病院が求めているのは、運動施設の指導員。
医療法42条施設をオープンさせるのに健康運動指導士を探していたのでした。

 

偶然、私も取得するつもりでしたので、願ったりかなったりでした。
高齢者の運動指導だけではなく、一般の方、学生などの指導もできる可能性が、でてきたのです。

資格取得後採用という内定をいただきました。
健康運動指導士の資格取得も苦労しましたが、やりたかったことに一番近い勉強。苦労ではありませんでした。

資格試験合格後、13年という貴重な勤務先を得たのでした。

トレーニングコーチ

13年余り、健康運動指導士として、またトレーニングコーチとして仕事をしてきました。

「これからもパイオニアとして頑張って欲しい」が私の原動力

健康運動指導士は、

安全で効果的な運動を実施するための運動プログラム作成及び実践指導計画の調整等を行う役割を担う者

と位置づけられています。医療法42条の設置基準には必要な資格でした。

中高年の体力づくり、生活習慣病などの病気を持った方の運動指導を仕事としてきました。
そのほか、高校野球2チーム、大学野球1チーム、アルペンスキー選手、独立リーグの選手などのトレーニング指導にも携わることができました。

学校の教員にはなれませんでしたが、小学生から80歳以上の方を教える先生になれました。

時間はかかりましたが。。

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教師を目指しましたが教師にはなれませんでした。
今でも少しあこがれがあります。
いい仕事だと。

大型免許をとったのは、部活の引率をしたかったから

でも、今の仕事に満足しています。いろいろな人と接することができるからです。そして、生徒や学生とも接することができるからです。

あれだけやりたかった部活動にも、かかわっているのですから最高です。

私が目指した、仕事をしている人(教師)と一緒に
生徒や学生のことを考えられること。

部活動は「教育活動の一環」だと考えを共有できることは、すばらしいことではないでしょうか。

 

【編集後記】

今日、行く予定だった学院大でのウエイトリフティング。
都合でいけなくなりウオーキングに変更。
試合まであと2週間。いよいよ怪しくなってきました。

体重は64㎏。二週間でマイナス3㎏です。
これまたちょっと怪しいかも。

 

【昨日のOnce a day】1日1回新しいことを

レストラン絢香でランチ
絢香でもらったタッチペン

おしらせ 2  
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